フェニーチェ歌劇場友の会
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ヴェネツィア音楽散歩(2)

カナル・グランデ編 サン・マルクオーラからサン・スタエまで

San Marcuola(サン・マルクオーラ)
ファッサードがレンガのままの教会がサン・マルクオーラ教会で、その3軒ほど右、ルネサンス様式の立派なファサードの屋敷がヴェンドラミン・カレルジ館である。ここは現在市営のカジノになっているが、ワーグナーが亡くなったのがこの屋敷である。
ワーグナーがこの屋敷に居を構えたのは1882年の9月24日で、これが5回目のヴェネツィア滞在であった。当時、この屋敷はアパートになっており、それを借りたわけだが、アパートといってもワーグナーが借りた部分だけでも28部屋あり、かなりゆったりしたものであった。ワーグナーはこの屋敷でピアノを弾き、本を読み、サン・マルコ広場のカフェに出かける、という毎日を送っていた。
10月30日には窓から彗星が見えたと妻コジマが記録している。11月19日にはワーグナーの義父、フランツ・リスト(コジマの父)もこの家を訪れ、2ヶ月ほど滞在している。12月24日にはフェニーチェ劇場でコジマの誕生祝を行い、19歳の時に書いた交響曲ハ長調を指揮している。
ワーグナーは死の直前まで比較的元気だったようで、死ぬ1週間前の1883年2月6日にもカーニヴァルでにぎわうサン・マルコ広場に出かけていたりする。2月13日の午後3時30分ごろ、コジマの腕に抱かれてワーグナーは亡くなった。死因は心臓疾患。亡くなった部屋は側翼の中二階、3番目と4番目の窓があるところである。遺体はここからゴンドラで駅まで運ばれた。
リストに「悲しみのゴンドラ」というピアノ曲があるが、これはこのときの情景を曲にしたもの、といいたいところであるが、実はワーグナーの死の6週間ほど前、リストがヴェネツィア滞在中に書いたものである。リストは何度かゴンドラが遺体をサン・ミケーレの墓地に運ぶのを目撃してこの曲を書いたとのこと。ワーグナーの死後に書いたものとして「R.W.-Venezia」がある。フェニーチェ劇場はこの年、偉大な作曲家に対する哀悼の意を込めて、「ニーベルングの指環」の4作品を上演している。
ワーグナーの部屋は現在、ヴェネツィア・ワーグナー協会が管理しており、事前に申し込めば見学することができる。なお、このヴェンドラミン・カレルジ館はルネサンスの大建築家、マウロ・コドゥッチによるもので、彼の作品はサン・ザッカリーア教会をはじめ、ヴェネツィアのあちこちで見ることができる。
ヴェンドラミン・カレルジ館の庭を挟んで右側の屋敷がマルチェッロ館である。作曲家のアレッサンドロ・マルチェッロ(1684年)とベネデット・マルチェッロ(1686年)の兄弟が生まれたのがこの場所である。建物そのものは18世紀に建て直されている。日本でマルチェッロの曲といえば、映画「ヴェニスの愛」で使われたオーボエ協奏曲が有名だが、これは兄のアレッサンドロの作品で、しかも現在我々が耳にしているのはバッハが鍵盤楽器用に編曲したものから復元されたものである。作曲家として大成したのはむしろ弟のベネデットのほうで、政府の要職を勤める傍ら、400曲を超える世俗カンタータやミサ曲、オラトリオなどを作曲している。著述家としても有名で「当世劇場(teatro alla moda)」では、当時人気絶頂であったヴィヴァルディを痛烈に皮肉っている。また教育者として多くの後進の指導に当たったが、ガルッピは彼の弟子である。ちなみにヴェネツィアのコンセルヴァトワール(音楽大学)は「ベネデット・マルチェッロ音楽院」という名前である。

ヴェンドラミン・カレルジ館(左)とマルチェッロ館(中央)

San Stae(サン・スタエ)
サン・スタエのバス停の前にある教会がサン・スタエ教会。言い伝えでは10世紀に教会が建立されたが、現在の建物は18世紀のもので、総督A.モチェニーゴの遺産によって建てられた。教会の右側の路地をしばらく行くと、カ・モチェニーゴという建物があり、もちろんモチェニーゴ家の屋敷であったが、現在は服飾博物館となっている。18世紀の貴族の暮らしぶりを垣間見ることのできる素晴らしい博物館である。なお、「カ(Ca’)」というのはヴェネツィア方言で、家(Casa,カーサ)のことである。
サン・スタエのバス停のちょうど真向かいに小さな運河が右奥に伸びているが、この運河の入り口右側屋敷がバルバリーゴ館である。これは16世紀の建物であるが、よく見ると、うっすらとフレスコ画を確認することができる。かつて大運河沿いの屋敷の多くはフレスコ画で装飾されていたが、なにぶんにもこの町は湿度が高いのですぐに痛んでしまう。現在まともにフレスコ画が残っているところはない。しかし、ティツィアーノやティントレットといったヴェネツィア絵画の巨匠たちが描いたフレスコ画が、大運河のあちこちの屋敷を飾っているという状況を想像するに、当時の大運河はさながら美術館のようであったと思われる。なお、この屋敷にはスペインの大ソプラノ歌手、マリア・マリブランが滞在していた。

サン・スタエ教会

バルバリーゴ館のフレスコ画

サン・スタエの広場から進行方向2軒目の白い大きな建物がカ・ペーザロである。ペーザロ家は13世紀の中ごろ、マルケ州の町、ペーザロ(ロッシーニの生まれた町)からヴェネツィアにやってきた。フラーリ教会にあるティツィアーノの名作、「ペーサロ家の聖母」のパトロンである。建物はスカルツィ教会と同じ、ロンゲーナが建てたバロック様式の屋敷で、現在は近代美術館と東洋美術館が入っている。あまり日本人観光客は来ないが、訪れる価値がある場所である。
1軒はさんで隣の白い大きな建物が、カ・コルネール・デラ・レジーナ。レジーナはイタリア語で「女王」。キプロス女王であったカテリーナ・コルネーロは1454年、この場所で生まれた。ただし、建物は18世紀のもの。カテリーナはキプロス強奪をもくろむヴェネツィア共和国に女王として現地に送り込まれた。王はすぐに殺され、彼女が王位を継いだが、後にアーゾロの領地と引き換えにキプロス島を譲渡させられた。ドニゼッティが彼女を題材にしたオペラ「カテリーナ・コルネーロ」を作曲している(1844年ナポリにて初演)。また、ティツィアーノが素晴らしい肖像画を描いている。
カ・コルネール・デラ・レジーナの隣、赤い小さな屋敷は現在ホテルになっているが、画家のファヴレットが住んでいた家である。彼の絵はカ・ペーサロの中の近代美術館で見ることができる。

カ・ペーサロ(近代美術館)

カ・ファヴレット(左)とカ・コルネール・デラ・レジーナ(右)

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