フェニーチェ歌劇場友の会
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ヴェネツィア音楽散歩(3)

カナル・グランデ編 カ・ドーロからリアルトまで

Ca' D'oro(カ・ドーロ)
進行方向バス停の手前の建物がカ・ドーロである。カ・ドーロとは「金の家」という意味だが、その名の通り、かつては金箔が貼られていた。今では金はどこにも残っていないが、とはいえ大運河に並ぶ屋敷の中で最も美しいもののひとつであることに間違いはない。15世紀に建てられたヴェネツィアン・ゴシック様式のこの建物は、当時の商人の屋敷の特色をよく表している。当時の貴族はほとんど商人であり、その屋敷も商業に最適な構造になっている。つまり、1階の大運河に面したフロアは船から直接荷物を降ろし、一時的に商品を保管でき、2階は事務所、3階は住居、屋根裏部屋は使用人の部屋といった具合である。カ・ドーロは現在、博物館として利用されており、マンテーニャ、カルパッチョなど作品のほか、ジョルジョーネとティツィアーノがドイツ商人館の外壁に描いたフレスコ画の断片などが展示されている。
カ・ドーロの対岸に市場がある。魚市場の建物はゴシック様式で古そうに見えるが、実は20世紀になってから建てられたものである。ブラームスは生涯に8回もイタリアを旅行しており、このヴェネツィアも何度か訪れているが、クララ・シューマンにイタリア旅行を勧める手紙の中で、ヴェネツィアの市場を見るようにと書いている。南国の野菜や果物、地中海やラグーナでとれた魚介類は北ドイツ出身のブラームスにはきっと珍しかったであろうし、市場全体の雰囲気が気に入ったのかもしれない。ところで、当時の楽壇においてワーグナーとブラームスは激しく対立していたが、二人がこの町で出くわすなんてことがあったのではないかと想像するのも楽しいものである。ちなみにワーグナーがヴェネツィアに最後にやってきたのは1882年の9月16日で、一方、ブラームスは9月19日(おそらく)、友人である医師ビルロートとともにヴェネツィアに到着し、クララ・シューマンとその娘たちと合流しており、数日ではあるが同じ時期にヴェネツィアに滞在していたことになる。実はブラームスはワーグナーの音楽を評価しており、彼が亡くなったときにバイロイトに月桂樹を送っている。受け取ったコジマはかなり困惑したようであるが。
リアルト橋手前、左側の大きな建物がドイツ商人館である。現在は郵便局として使われている。商人館とはビジネスセンターのようなもので、ヴェネツィアに来た商人が一時的に商品を保管したり、打ち合わせをしたり、時には宿泊したりすることもあった。かつては正面のファサードはジョルジョーネ、側面はティツアーノのフレスコ画で飾られていた。

カ・ドーロ(右側)

ドイツ商人館(右側)

Rialto(リアルト)
リアルト地区はヴェネツィア本島のなかでももっとも早く栄えた場所である。ヴェルディのオペラ「アッティラ」は、フン族に追われてアクレイアから逃れてきた民がここRio Altoに新しい国を作る、というシーンで始まる。ちなみに、ヴェネツィアの北にあるトルチェッロ島には「アッティラの椅子」という白い石造りの椅子があるが、本当にアッティラが座ったかどうかは定かではない。ヴェルディの「アッティラ」はフェニーチェ劇場で1846年3月に初演されている。
リアルト橋はかつては大運河に架かる唯一の橋であった。現在の石造りの橋は1591年に完成したもので、設計者の名前はアントニオ・ダ・ポンテ(橋)という名前である。現在、、橋の上には貴金属やみやげ物を売る店が並んでいるが、かつてはもっと庶民的な店が並んでいた。ワーグナーはこの橋を渡るとき、中央の通路ではなく、いつも端の階段と通路を使っていた。というのも、中央の通路にある肉屋に並んでいる肉に恐れをなしていたからである。
1番のバス停の2軒ほど先にある白い建物がマニン・ドルフィン館で、ヴェネツィア共和国最後のドージェ、ルドヴィーコ・マニンの屋敷であった。建物はサン・マルコの図書館などを手がけた名匠サンソヴィーノによるものであるが、ルドヴィーコ・マニンは内部を完全に作り変えてしまった。改装作業を手がけたのはフェニーチェ劇場を設計したアントニオ・セルヴァである。
 なお、屋敷の中庭にはアンドレア・パッラーディオが建てた木製の劇場があった。これは1565年に建てられたもので、同じくパッラーディオがヴィチェンツァに建てたテアトロ・オリンピコのようなものだったらしい。ここで音楽の伴奏を伴った悲劇やコメディの私的な上演が行われていたが、1570年には取り壊されてしまった。
マニン・ドルフィン館の向かって右隣が文学者ピエトロ・ベンボが生まれたベンボ館。さらにその右隣の小さな家にヴィヴァルディ一家が1730年の5月4日に引っ越している。カナル・グランデがわに窓があり、カッレに入り口があった。ここでヴィヴァルディはカルロ・ゴルドーニと出会う。この家でヴィヴァルディの父、ジョヴァンニ・バッティスタが亡くなった。ヴィヴァルディはこの家にウィーンに旅立つまで、つまり1740年の12月まで住んでいた。近所には兄弟のマウロの工房があった。彼は写譜屋であった。

リアルト橋

マニン・ドルフィン館

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