フェニーチェ歌劇場友の会
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ヴェネツィア音楽散歩(5)

カナル・グランデ編 カ・レッツォニコからアカデミアまで

Ca’ Rezzonico(カ・レッツォニコ)

バス停のすぐ背面にある立派な屋敷、カ・レッツォニコはロンゲーナが17世紀後半に建築に着手したが、依頼主のボン家の資金が尽き3階を作る前に中断された。未完の建物をレッツォニコ家が買い取り、マッサーリが完成させた。現在は18世紀美術館で、大運河沿いの屋敷で一般公開されている数少ないもののひとつである。マッサーリによる舞踏室では時々コンサートが催されるが、響きが素晴らしい。ティエポロのフレスコ画やヴェネツィアではほとんど見ることのできないカナレットの風景画などが鑑賞できる。
カ・レッツォニコの対岸にある立派な屋敷がグラッシ館で、大運河で最後の巨大建築である。こちらは現代美術の展覧会がよく行われている。日本の建築家安藤忠雄氏が近年、内装を手がけた。
グラッシ館の右、サン・サムエレ広場を挟んで右側の屋敷がマリピエーロ館。1882年、ワーグナーの最後のヴェネツィア滞在の際、この屋敷に友人シュライニッツをしばしば訪ねた。自作のオペラをピアノで弾いたり、歌ったりして家族とともに楽しんだとのこと。作曲家ジャン・フランチェスコ・マリピエーロが1882年、ここで生まれた。また、1948年1月21日にこの屋敷で、作曲家ヴォルフ・フェラーリが亡くなっている。
サン・マルコに向かって右側、アカデミア橋の手前、3軒目の白い屋根つきバルコニーのある屋敷がファリエル館である。1355年反逆罪で斬首されたドージェ、マリン・ファリエルの屋敷であったといわれている。パラッツォ・ドゥカーレの大評議会の間に描かれている歴代のドージェの肖像画で唯一、黒い幕で覆われているのが彼のものである。バイロン原作、ドニゼッティ作曲のオペラ「マリーノ・ファリエーロ」は彼を主人公にした作品である。

カ・レッツォニコ

グラッシ館と安藤忠雄氏の名前の看板

Accademia(アカデミア)
バス停の正面にある建物がヴェネツィア美術の殿堂、アカデミア美術館である。一般に公開されたのが1817年8月10日からであり、ヴェネツィアを訪れた多くの音楽家たちもここでヴェネツィア美術の真髄に触れたわけである。1830年、メンデルスゾーンはヴェネツィア滞在中足繁くここに通い、特にティツィアーノの作品に強い印象を受けた。ワーグナーも1876年9月21日、3回目の滞在の際にここを訪れている。音楽家関連の作品としてはドメニコ・フェティによるモンテヴェルディの肖像画がある。
アカデミア橋をくぐってすぐ、美術館の対岸に黄色い建物があるが、この建物がフランケッティ・カヴァッリ館。17世紀のはじめ、この家の当主フェデリーゴ・カヴァッリが当時ヴェネツィアの領地だったクレーマでピエル・フランチェスコ・ブルーニという才能豊かな少年を見出し、引き取って音楽の教育を受けさせた。彼こそがヴェネツィア・オペラの礎を築いた作曲家フランチェスコ・カヴァッリである。当時サン・マルコ聖堂の楽長であったモンテヴェルディから作曲の手ほどきを受けたのも、おそらくこの屋敷である。彼は生涯をこの家ですごし、40を超えるオペラを作曲した。1665年には彼自身もサン・マルコ聖堂の楽長に就任している。
18世紀、この屋敷にはペポリ家が住んでいたが、モーツァルト親子がこの家に演奏に来ている。またアレッサンドロ・ペポリは1792年5月16日、フェニーチェ劇場の?落としの演目、パイジェッロの「アグリジェントの遊び」の原作者である。彼自身も役者で、この屋敷の3階には彼が復元した小さな劇場があったという。

フランケッティ・カヴァッリ館
フランケッティ・カヴァッリ館の右隣、2つ繋がった屋敷がバルバロ館である。1560年、ダニエレ・バルバロはアンドレア・パッラーディオにマゼールにある有名なヴィラ・バルバロのデザインを発注している。このヴィラをフレスコ画で装飾したのがパオロ・ヴェロネーゼ。ヴェロネーゼがサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の発注で「最後の晩餐」を描いたとき、テーマにふさわしくないものが描かれているとして宗教裁判で有罪となり、描き直しを命じられたが、その窮地を救ったのもダニエレ・バルバロである。彼は画家に絵のタイトルを「レヴィ家の饗宴」と変えるよう助言した。その絵は現在、アカデミア美術館で見ることができる。
この屋敷は1885年、ボストン出身のアメリカ人カーティスによって買い取られ、数多くの文人、画家がここに招かれた。ブラウニング、ヘンリー・ジェームス、サージェント、クロード・モネらがこの屋敷に滞在している。
フランケッティ・カヴァッリ館の対岸にあるルネサンス様式の立派な建物はコンタリーニ・ダル・ザッフォ館である。20世紀に入ってからの所有者の名前にちなんでコンタリーニ・ポリニャック館とも呼ばれている。この屋敷を買い取ったエドモン・ド・ポリニャック公女は芸術のよき理解者であるだけでなく、自身が画家でピアニストであった。そのため、この屋敷は当時、ヨーロッパ有数のサロンとしてピカソ、サージェント、プルーストなど数多くの芸術家を迎え入れている。ここで1925年、ストラヴィンスキーが自作のピアノソナタを演奏している。「指を怪我しているので、9本の指で弾かねばなりません」と観客に詫びてから演奏を始めたとのこと。また彼の「きつね」はポリニャック公女の委嘱によって書かれた。

バルバロ館

コンタリーニ・ダル・ザッフォ館

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