フェニーチェ歌劇場友の会
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ヴェネツィア音楽散歩(6)

カナル・グランデ編 ジッリオからサン・マルコまで

Santa Maria del Giglio(サンタ・マリア・デル・ジッリオ)

バス停の前方、水上テラスのある立派な屋敷がホテル・グリッティ・パレス。このホテルの常客であったアーネスト・ヘミングウェイは「グリッティのテラスでとる朝食ほど素晴らしいものはない」とコメントしている。ストラヴィンスキーもこのホテルに滞在している。グリッティ家はヴェネツィアでもっとも由緒ある貴族の家柄のひとつであるが、この屋敷を入手したのは比較的最近で1814年のことである。その後、ヴァルツァー男爵夫人の手に渡り、1851年にはラスキンがここに滞在している。
グリッティ・パレスの右隣の屋敷はコンタリーニ・フランジニ・フィーニ館で、こちらも19世紀の間、ホテルであった。建物は17世紀のもので、世紀の後半の改装の際、ごちゃごちゃした装飾で評判の悪いサン・モイゼ教会のファサードと同じ、アレッサンドロ・トレミニョンが内装を手がけたと推測されている。ホテル時代は「グランド・ホテル」と呼ばれていた。ここにもラスキンが長期滞在をしている。現在はヴェネト州の役所になっている。
コンタリーニ・フランジニ・フィーニ館の対岸、サルーテのバス停の手前にあるゴシック様式の古い小さな建物はサン・グレゴリオ教会の付属修道院であった。この修道院は何世紀もの間力を誇っていたが、1566年、アンドレア・ガブリエリが「5声のマドリガル第1巻」をその修道院長に献呈している。

グリッティ・パレス(左)とコンタリーニ・フランジニ・フィーニ館(右)


サン・グレゴリオ教会付属修道院

Salute(サルーテ)
サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会はペストの終焉を聖母マリアに感謝するために建築された。建設に当たって、ヴェネツィアの町の中でもっともプレステージの高い場所として、現在の場所が選ばれた。設計はコンペの末、当時まだ32歳であったロンゲーナの案が採用された。1631年の建立の儀式の際、サン・マルコ大聖堂の楽隊がミサ曲の演奏を行っているが、これを指揮していたのは当時楽長であったモンテヴェルディである。
サルーテのバス停の対岸、コンタリーニ・フランジニ・フィーニ館の2軒隣にある小さな屋敷がコンタリーニ・ファザン館で、シェークスピアの「オセロ」のヒロイン、デスデモーナの家として知られている。


コンタリーニ・ファザン館(中央)

サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会

デスデモーナの家の5軒ほど先、水上テラスのある建物がティエポロ館で、19世紀には「ホテル・ブリタニア」になり、現在は「ホテル・エウロパ・エ・レジーナ」である。ホテルのレストランの名前も「ティエポロ」であるが、これは18世紀に一世を風靡した画家の名前にちなんだものではない。1310年に反乱を起こし処刑されたバイアモンテ・ティエポロの一族がこの場所に住んでいたのである。
1949年1月、マリア・カラスはフェニーチェでの「ワルキューレ」出演のため、このホテルに滞在していた。ちょうど同じころ、「清教徒」の指揮のためセラフィンもヴェネツィアに来ていたが、主役が急病になり、劇場が困り果てていたとき、セラフィンの娘が自分の隣の部屋のカラスがエルヴィーラのアリアを練習しているのを聴き、父親にその旨を話すと、セラフィンはエウロパ・エ・レジーナに出向き、カラスにアリアを歌ってくれるよう頼んだ。彼女は狂乱の場のアリアを歌い、翌日フェニーチェと「清教徒」の出演契約を結んだ。2日後、彼女は公演の後の大喝采を浴びていた。
サン・モイゼ小運河を通り過ぎて2軒目の屋敷がジュスティニアン・モロジーニ館で、かつての「ホテル・ヨーロッパ」である。客人として、プルースト、ターナー、ゴーチエ、スタンダール、シャトーブリアン、エリオットなどが宿泊した。現在はビエンナーレの本部が入っている。1851年の2月、ジュゼッペ・ヴェルディがフェニーチェでの「リゴレット」のリハーサルのためにここに滞在している。ホテルの手配などはヴェネツィア在住の台本作家、ピアーヴェが行っていたようだ。2年後の1853年2月、同じくフェニーチェでの「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」のリハーサルの際もこのホテルに滞在した。このときのトラヴィアータの初演は失敗であった。ヴェルディはプライベートでもヴェネツィアを訪れており、1856年の夏、ジュゼッピーナ・ストレッポーニとともに3週間ほどすごしているが、その際の滞在場所はわかっていない。少なくともホテル・ヨーロッパではないようだ。このときもピアーヴェに宿の手配を頼んでいるが、ホテル・ヨーロッパはフランス人やミラノの連中がわずらわしい、町の中心から離れていてもいいから、とにかく清潔で涼しくて静かな宿を頼む、と書き送っている。ヴェルディは「ヴェネツィアほど美しく、芸術的で詩的な町はない。特にこの季節(夏)においては」と書き残している。翌1857年には、「シモン・ボッカネグラ」のために再度ホテル・ヨーロッパに滞在している。プライベートのときはともかく、仕事の際はフェニーチェに近いという利便性を評価していたと思われる。
このホテルのゲストで忘れてならないのはチャイコフスキーで、彼は1877年に滞在している。「月明かりの夜、開け放った窓辺に座り、真正面に見えるサンタ・マリア・デル・サルーテ教会と左手に広がるラグーナを眺めるのは、ただただ、うっとりさせられる。」彼もヴェネツィアがお気に入りだったようで、1872年、1874年にもこの町を訪れている。
また、ワーグナーは1882年の最後のヴェネツィア滞在の際、9月16日から24日までこのホテルに滞在した後、ヴェンドラミン・カレルジに移っている。ヴェンドラミン・カレルジにはワーグナーがホテル・ヨーロッパの支配人に宛てて、シャンパンを1ケース、彼の使用人に渡してくれるよう依頼するメモが展示されている。
ストラヴィンスキーは、1913年5月の「春の祭典」のパリ初演の前に、このホテルでセルゲイ・ディアギレフと会っている。ホテルのサロンの隅で、彼にスコアを弾いて聞かせている。

ジュスティニアン・モロジーニ館(旧ホテル・ヨーロッパ、左から2軒目)

San Marco(サン・マルコ)
バス停を出てすぐの角にあるお店が「ハリーズ・バー」である。ヘミングウェイをはじめ、ヴェネツィア滞在中のアメリカ人に人気のあったバーで、生肉を使った前菜の「カルパッチョ」、ピーチジュースと発泡性ワイン「プロセッコ」を使ったカクテルの「ベリーニ」はこの店で生まれた。ちなみに両方ともヴェネツィアの画家の名前である。


ハリーズバーの入り口

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