フェニーチェ歌劇場友の会
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ヴェネツィア音楽散歩(16)

カンナレージョ地区編 サンタ・ルチア駅からゲットーへ


パラッツォ・ゼーノ

サンタ・ルチア駅から北に向かう筋はリスタ・ディ・スパーニャという。かつてこの通りは運河であったが、この運河沿いにスペイン大使館(大使公邸)があったのでこの名がついた。168番地にある建物パラッツォ・ゼーノがそのスペイン大使館である。1739年8月26日、スペイン大使がここで息子の婚礼の祝宴を催し、ヴィヴァルディがチェンバロを弾き、弟子のソプラノ歌手、アンナ・ジローが歌った。彼女はヴィヴァルディの愛人であったといわれている。現在、この建物は州の役所が入っている。

カンナレッジョ運河に出たら、橋の手前を左に曲がり、まっすぐ運河沿いに歩いて、アーチが3つある橋(ポンテ・デイ・トレ・アルキ)を渡る。

パラッツォ・スリアン−ベッレット
18世紀、この屋敷はフランス大使の住居であった。1725年9月12日、ヴィヴァルディはルイ15世の結婚を祝してカンタータ「栄光と結婚」を作曲、演奏している。また1726年11月4日および5日に大使ランゲの赴任を祝して三声のセレナーデ「祝されたセーナ」を演奏している。1729年9月にはアルビノーニがフランス皇太子の誕生を祝して3声のカンタータ「Il concito de’ pianeti」を作曲し演奏している。
1743年9月4日から1744年8月22日まで、この屋敷にジャン・ジャック・ルソーが滞在した。滞在中、彼はチェンバロをレンタルして弾いたり、音楽家たちを雇って劇場やオスペダーレで聞いて気に入った曲を演奏させたりしていた。劇場では彼はヴェネツィア人の注目の的であった。なぜならば、彼は音楽を誰にも邪魔されずに聞きたかったので、いつもボックス席に一人で聞いていたからである。彼はまたゴンドリエーレたちが「開放されたエルサレム」に基づいて即興的に歌うのを熱心に聞き、また譜面に書き起こした。彼はヴェネツィア滞在中、フランス音楽に対するイタリア音楽の優位を実感したのである。
パラッツォ・ゼーノ パラッツォ・スリアン−ベッレット

パラッツォ・スリアン−ベッレットを通り過ぎ、4つ目の路地を左に入る。

ゲットー
中世から近代にかけて、ヨーロッパの諸都市に設けられたユダヤ人の強制居住区域をゲットーと呼ぶが、その起源はこのヴェネツィアのゲットーである。ヴェネツィア共和国はユダヤ人に対して比較的寛容であったが、それでも外出するときは赤または黄色の帽子の着用を義務付けていたし、夜間はこの狭いゲットーの中に彼らを閉じ込めた。その結果、ゲットーでは人口密度が高くなり、ここの建物の高さは他のヴェネツィアの建物と変わらないが、各階の天井を低くして階数を増やす工夫がなされた。なお、現在はユダヤ人はほとんどこのゲットーに住んでいない。
ベネデット・マルチェッロはここから歩いて数分のところに屋敷があるが、このゲットーに通ってユダヤの典礼音楽を書き取り、「estro poetico armonico(詩的・音楽的霊感)」を作曲する際の素材とした。この曲集はマルチェッロの代表作であり、ヴィヴァルディが再評価されるまでは、この曲集ゆえにヴェネツィア音楽史上最高の音楽家といわれていた。
ヴィスコンティの映画「夏の嵐」では、このゲットーにオーストリア将校が住んでいることになっている。
ゲットー ユダヤ人迫害を記録するモニュメント

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