フェニーチェ歌劇場友の会
本文へジャンプ
ヴェネツィア音楽散歩(9)

サン・マルコ地区編 サン・サムエレ劇場後からロッシーニ劇場まで

サン・サムエレ劇場跡
Corte del duca 3044あたりにこの劇場の入り口があった。1655年に貴族のグリマーニ家によって建てられ、最初はもっぱら喜劇を上演していた。その後オペラも上演するようになり、ヴィヴァルディ、アルビノーニ、ガルッピなどのオペラが上演されている。1746年、ジャコモ・カサノヴァはこの劇場のオーケストラにヴァイオリニストとして雇われている。劇場は1747年に建て直され、その後、パイジエッロ、チマローザ、ドニゼッティなどのオペラが上演されている。当時の劇場の様子はガブリエレ・ベッラが絵に描いており、コッレール美術館やクエリーニ・スタンパ美術館で見ることができる。1843年、ヴェルディが始めてヴェネツィアに滞在した時に、この劇場に足繁く通っている。また、ワーグナーもパイジエッロの作品を聴きにきている。劇場は1894年に取り壊されて、現在は学校になっている。

ヴェロネーゼの家
San Marco, Salizada San Samuele 3338
ヴェネツィア・ルネッサンスを代表する画家の一人、パオロ・ヴェロネーゼがここに住んでいた。彼は1588年4月19日に亡くなっている。彼の名声を不動のものにしたのは、サン・マルコ広場にあるマルチアーナ図書館の天井に描かれた寓意画「音楽」で、当時ヴェネツィア画壇の長老であったティツィアーノから国家最高の画家と賞賛された。

サンサムエレ劇所の入り口があった辺り

ヴェロネーゼの家(手前)

ドゥオード館
San Marco, Campo Sant’Angelo 3584
サンタンジェロ広場の端にあるベージュ色の建物がドゥオード館である。ここはかつてホテルであったが、1801年1月11日、ドメニコ・チマローザがここで亡くなった。彼はナポリ近郊で生まれ、ナポリとローマを活動の拠点としていた。1799年、ナポリで市民が蜂起し、国王が国外に逃亡したためナポリは一時的に共和制になった。結局この共和国は1年も持たずに崩壊し、ナポリに復帰した国王は共和制に加担したものを片っ端から捕らえては死刑にした。チマローザは共和国政府に請われるまま共和制を賛美する詩に曲をつけていたので、彼も逮捕、投獄された。なんとか死刑は免れたものの、ナポリを追放になりヴェネツィアに移ってきた彼は、1801年のカーニヴァルのために「アルテミシア」を作曲中に急死した。あまりに突然の死は、彼がナポリ政府によって暗殺されたのではないか、という憶測を呼んでいる。

サン・タンジェロ広場
広場の南角にかつてサン・タンジェロ教会があった。ここにチマローザの墓があったのだが、教会そのものが1837年に取り壊されてしまった。

ドゥオード館

サンタンジェロ広場。サンタンジェロ教会があった辺り。

サン・ベネデット劇場(ロッシーニ劇場)
サン・ベネデット劇場は、1755年、サンタ・マリア・フォルモーザのグリマーニ家によって建てられた。ヴェネツィアの有力な貴族によって建てられた劇場としては最後のものである。ただ、すぐに所有権を民間のソチエタ、つまり共同出資者のグループに譲渡している。ヴェネツィアで最も大きな舞台と優れた設備の劇場であった。緞帳のあるヨーロッパで最初の劇場のひとつでもある。それまで劇場には幕というものがなかった。1771年、モーツアルト一家はジョヴァンニ・バッティスタ・ボルギの「シロエ」の公演を手伝い、その際にモーツァルトはアンナ・デ・アミーチスと知り合いになる。彼女は後にミラノの「ルーチョ・シッラ」公演の際、ジュニアを演じている。劇場は1774年に火事で焼け、すぐに再建されている。1786年、劇場の所有者ソチエタは土地の所有者である貴族のヴェニエル家によって追放されてしまう。そこで彼らはやむなく近くに土地を探し、そこに新しい劇場を建てた。これがフェニーチェ劇場である。18世紀の終り、ヴェネツィアの劇場ファンはサン・サムエレ劇場の公演を好むサムエリスティ(サムエル派)とサン・ベネデット劇場のほうを好むベネデッティスティ(ベネデット派)に二分されていた。
1810年に劇場の所有権がジョヴァンニ・ガッロに移り、劇場の名前もガッロ劇場と変更された。1813年3月22日、ロッシーニの「アルジェリアのイタリア女」の初演は大成功を収めた。1854年3月6日、ヴェルディの代表作「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」が再演され、大成功であった。この作品は前年にフェニーチェで初演されたが、そのときは失敗に終わっていた。ヴェルディは「フェニーチェで上演したものと何も変えていないのに、前回は失敗、今回は大成功」と手紙のなかでいぶかっているが、実のところ、フェニーチェでは初日こそ失敗であったが、上演を重ねるにつれて評価が高まり、結局8回公演が行われている。これは同じフェニーチェで初演された「シモン・ボッカネグラ」の5回を上回っている。フェニーチェでの失敗は演奏に起因するものであって、作品そのものはちゃんと評価されていたと見るべきかもしれない。
1868年、ロッシーニが死去し、劇場の名前が「ロッシーニ劇場」と変更された。19世紀の終わりまではオペレッタなどが上演されていたが、その後映画館となった。

サンベネデット教会側の入り口

運河に面した入り口。現在は使われていない。

前に前に戻る目次次へ進む

 

Amici della Fenice in Giappone. All rights reserved. 2006.