フェニーチェ劇場友の会
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■フェニーチェの歴史
18世紀末、ヴェネツィアには7つの劇場があり、そのうち最大のものは、サン・ベネデット劇場で、1755年にグリマーニ家によって建てられ、後にボックス席を所有する貴族の組合(ノービレ・ソチエタ・ディ・パルケッティスティ)に譲渡されました。しかし、1787年の法令に従い、この組合は劇場経営から放逐され、この劇場も土地の所有者であるヴェニエル家に譲渡をやむなくされました。
まもなく組合はもっと大きく豪華なオペラハウスを計画しました。そしてこの劇場は彼らの運命を象徴するように、ラ・フェニーチェ(不死鳥)と呼ばれるようになりました。
新しい劇場は建築家ジャンアントニオ・セルヴァの設計で1792年の4月に完成しました。フェニーチェはすぐさま、その芸術的なレベルの高さと建物の豪華さでイタリアおよびヨーロッパ中の注目を集めました。しかし、その名の持つ因縁であるかのように、1836年の12月13日の夜、火事で焼け落ちてしまいました。
組合は劇場を即座に再建することを決定しました。建築家ジャンバッティスタ・メデゥーナが指名され、工事は1837年の2月に始まり、同年12月26日の晩、新しい時代様式のスタイルで生まれ変わった劇場が一般に公開されました。
1935年7月23日、組合は劇場の株式をヴェネツィア市に譲渡し、劇場は公的な所有へと移行しました。
1996年1月29日、改装のための閉鎖中であった劇場が2度目の火災(今回は放火)に見舞われました。
しかし、建築家アルド・ロッシのプランにより、忠実に復元され、2003年の12月14日、再オープンを果たしました。

■フェニーチェとオペラ
フェニーチェ劇場のこけら落としは1792年5月16日、ジョヴァンニ・パイジエッロ(1740-1816)のオペラ「アグリジェントの大競技I Giuochi di Agrigento」で、以来、イタリア及びヨーロッパでその評価と名声は高まり、数々の傑作の初演劇場としてオペラ史にその名を刻んできました。
ジョッキアーノ・ロッシーニ(1792-1868)は最初のシリアスなオペラである「タンクレディTancredi」を1913年にフェニーチェのために書き、これは後の「シジスモンドSigismondo(1814年)」「セミラーミデSemiramide(1823年)」とともに彼のオペラ創作のひとつの頂点を成しました。
ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-35)は生涯書いた10のオペラのうち、「カプレーティとモンテッキI Capuleti e i Montecchi(1830年) 」「ベアトリーチェ・ディ・テンダBeatrice di Tenda(1833年)」の2つをフェニーチェのために書きました。ガエターノ・ドニゼッティ(1797-1848)は、「ベリザリオBelisario(1836年)」、「トロメイのピアPia de Tolomei(1837年)」「ルーデンツのマリアMaria di Rudenz(1838年)」の3つのオペラをフェニーチェのために作曲しました。
ジュゼッペ・ヴェルディの「エルナーニErnani」はフェニーチェで1844年3月9日に初演され、その後「アッティラAttila(1846年)」「リゴレットRigoletto(1851年)」「ラ・トラヴィアータLa traviata(1853年)」「シモン・ボッカネグラSimon Boccanegra(1857年)」の4つのオペラが彼に委嘱されました。この結果、フェニーチェはミラノのスカラ座に次いで、ヴェルディの初演の多さを誇る劇場となりました。
その後もフェニーチェは変わることのない名声と評価のもと、各時代の有名歌手や著名な指揮者を迎えてきました。1930年からはヴェネツィア・ビエンナーレと連携して国際近代音楽フェスティバルを実施してきました。
第2次大戦後もフェニーチェは質の高いプログラムと優れた演奏家で異彩を放ってきました。もっとも重要な初演作品としては、イーゴリ・ストラヴィンスキーの「道楽者のなりゆきRakes Progress(1951年)」、セルゲイ・プロコフィエフの「火の天使The Fiery Angel(1955年=舞台初演)」、ベンジャミン・ブリテンの「ねじの回転The Turn of the Screw(1954年)」、そしてルイジ・ノーノの「不寛容Intolleranza1960(1960年)」などがあります。
 

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